ちょたとひよし

ほけんだより

 

 夕暮れ時、街の明かりが順番に灯きはじめた頃。
もう長袖の制服は少し暑くて、額にうっすら汗をかきながら長太郎は日吉の家に向かっていた。

「日吉君に、保険だより届けてくれない?風邪で休んでるみたいで」
 名前は、なんだったかな。日吉のクラスの保険委員の子だった。
「日吉君の家、知ってる人がいなくって」
 少し言いにくそうに、「鳳君なら知ってるって、○○君が」と彼女は鞄からかわいらしい封筒を出した。封筒は彼女の私物だろう。中身は保健だより、だけど。
「ごめんね、鳳君の家から遠い?」
 そんなことないよ、と言って長太郎は封筒を受け取った。ありがとう、と言うと彼女は少し離れた所で待っていた友達の所に走って行った。
 そのまま部室に行き、鞄に封筒をしまう。忘れないようにしないと、と思った。
 宍戸や他の先輩に色々言われたけれども、日吉にプリントを届けるんですよ、と言うとみんなの興味はあっさり無くなった。

 途中で宍戸と別れ、長太郎はいつもと違う道を行く。自転車通学をしている宍戸は、俺が届けてやろうか?と聞いてきたが悪いので断った。
 日吉の家に行くのは初めてじゃないし、そんなに遠くもない。
 かといってそんなに何度も行っているわけでもない。家を知っている程度だ。
 それよりも、クラスの誰もが日吉の家を知らないのはおかしい。無愛想だけれども、友達がいないわけではなさそうなのに。
 ブロック塀の壁が切れ、こげ茶色の板塀になった。きつい上り坂になる。この坂を上り切ったら日吉の家だ。日頃きつい運動をしている長太郎でさえ、少し嫌になる道のり。ああ、これは誰も行きたがらない。
「暑い…」
 長太郎はブレザーを脱いだ。
 振りかえるとビル群に沈む夕日が見えた。手の甲で軽く汗を拭う。葉ばかりになった桜が板塀から枝を伸ばし、オレンジ色に染まっていた。

 坂を上り切ると、日吉家の門が見えた。自分の家とは違う木で出来た立派な門。
「すみませーん。」
 声をかけるが反応はない。インターホンもない。門は空いているのでそろっと中に入った。
 子供用の自転車が何台も止まっている。日吉の家は古武術の道場をやっているらしい。門下生だろう。どんどん、と床を踏み鳴らす音や気合いの入った叫び声も聞こえる。
 そちらの喧騒から遠ざかるように、別の棟の玄関に向かった。
「すみませーん」
 もう一度声をかけた。奥の方から「はーい」という声と女の人が出てきた。日吉の母親だ。
「こんにちは。若君にプリントを持ってきました。」
「あら、鳳君。ありがとうねぇ。若ったらまったく、たした熱もないのに、ちょっと上がってお茶でも飲んで行って。」
 いや、僕もう帰りますから、と言って遠慮したのだが強引に応接間に案内されてしまった。日吉とはうって変わって愛想がいい。
「若ってばお友達全然つれてこないのよ。ちょっとまってね、呼んでくるから。」
 あ、いえ、おかまいなく、という声はたぶん聞こえてないだろうなぁと思いながら少し硬い古めのソファーに座った。
 綺麗に磨かれている茶箪笥の上に乗っている博多人形を眺めた。埃一つない。家は古めだか掃除が行き届いていた。その隣には写真立てが飾ってあった。七五三だろうか、男の子が二人並んでいるのが見える。長太郎は立ち上がってもっと良く見ようと近寄る。
「いいからそこに座って早く帰れ。」
 不機嫌そうな声が聞こえた。振り返るとジャージを着た日吉がいた。黒フレームの眼鏡をかけていた。ちょっと意外だった。学校指定以外のジャージを着ているのを見るのは初めてだった。
「風邪はよくなったの?」
「もう治ってる。念のため一日休めって。いいから帰れ。」
 そう言って先ほど長太郎が座っていた所に日吉は座った。長太郎はその向いに座り直す。
「お友達にそんな口きいちゃダメよ、まったく。いっつも威張ってて。」
 母親が、お茶とお茶菓子を持ってくる。日本茶とぬれ煎餅だ。
「あ、いえ、おかまいなく。」
 これ俺の、と日吉が目で母親に訴えるが、母親は気が付いていない。
 長太郎は出されたお茶請けをしげしげと眺めた。お煎餅のようだけれども。
「じゃあごゆっくり。」
 母親は応接室を出て行った。
「飲んだら帰れよ。」
 あ、うん。と言いながら、鞄から封筒を出した。
「これ、クラスの人から。」
 日吉は受け取って中からプリントを出し眺めた。
「別に明日でもいいよな、これ。持ってくるなんて間抜けだな。」
 言われてみればそうだ。長太郎は苦笑しつつぬれ煎餅を食べる。
「ん、湿気ってるね、これ。」
 日吉が舌打ちした。
「もう食うなよ。」
 そう言って日吉は茶箪笥にぬれ煎餅を満足そうにしまった。
 長太郎は今日部活で行った練習と宍戸の話をする。日吉はぼんやりと、仏壇に鳩サブレが置いてあったのを思い出した。
「それでね、宍戸さんってばね、ボレーの練習の時に…」
 日吉は無視して仏間に向かった。長太郎の話なんて聞くだけ無駄だと思っている。
 鳩サブレーを二枚持ってきたとき、長太郎は帰り支度をしていた。
「なんか宍戸さんからメールが来て呼び出されたよ。ちょっと練習してくるね。」
「ああ、早く消えろ。」
 日吉は顎で玄関の方を指す。

「明日は来るんだろ?跡部さんとか心配してたよ。」
「行く。」
 玄関を出て、門まで送る。
 じゃあ、と言った長太郎から日吉は視線を外した。そして小さな声で、礼を言った。
 視線を長太郎に戻したのだけれど、すでに坂を全速力で下っていく小さな背中が見えただけだった。
 そして響く小さな舌打ち。

 日は暮れて、星がまたたいている。
 明日から衣替えだ。


080501ぺちゃ

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